死なないために生きている
坂庭です。
ご相談を受けていると
このような方が時々、
いらっしゃいます。
「これやらないと、
痛みが出るから」
「これやらないと、
苦しくなるから」
「ペットに餌をあげないと、
死んじゃうから」
「植物に水をあげないと、
枯れちゃうから」
特に病気の症状が
重い人に共通していますが。
「死なないために生きている」
という感じですね。
言い換えると
「生きる目的が無い」
ということになります。
残念ながら、これでは
脳は動きませんし、身体的な
反応も変わりません。
それから、「消去法」で
生きている方ですね。
「どうしてもコレをやりたいから
やっている」という感覚ではなく。
「これならお金もかからないから」
「これなら時間もかからないから」
「これなら自分にも出来そうだから」
「これなら親に反対されないから」
「これなら旦那に否定されないから」
「これなら周りから非難されないから」
エトセトラ、エトセトラ
つまり、悪い意味で
「身の丈に合った生活」ですね。
一生、突き抜けることができません。
金魚も亀も水槽を大きくすると
個体がどんどん大きくなっていきます。
「器を大きくする」に通じます。
逆に、小さい水槽のままだと
いつまで経っても個体が大きく
なりません。
個体をそれ以上、大きくしないために、
あえて小さい水槽のまま、
ということもありますが。
人間も同じです。
これだと、いつまで経っても、
「出来そうなことしかやらない」ので、
選択肢が広がりません。
選択肢=解決策
ですから。
選択肢が広がらないと、
解決策も増えませんし、
自分の可能性が広がりません。
結果として。
良くも悪くも、
「今までの自分と同じ」です。
小さい器のまま。
器の小さい人間のまま。
現実への変化も小さいまま。
入ってくる知識や情報の質も悪く、
人脈もお金も、小さくて少ないまま。
「溢れっぱなし」になることは
永遠にありません。
そして、「まだまだ」「もっともっと」
という欠乏感の中で一生を終えます。
***
僕が高校生の時の話です。
母方の祖父が転倒し、
そのまま寝たきりなり、
認知症になりました。
病院の天井を目の前の「壁」だと
思い込み、天井を指差して、
「おい、あんた。ここから出してくれ」
「頼むから、ここから出してくれよ」と
毎日、懇願されました。
病院のベッドで死ぬ寸前まで
「おい、あんた誰だか知らないけど、
金はあるんか?金は大丈夫なんか?」と
僕に、しきりに聞いてきました。
認知症になった状態でも
最後の最後までお金の心配をして
この世を去りました。
***
話を戻します。
あなたが、「今の自分」で
十分、幸せで、満足で、満たされて
いるのであれば、それで構いませんが。
もし、そうでなければ。
生きる目的を明確にし、
選択肢を広げ、可能性を
広げた方がいいでしょうね。
「今の自分でいい」のか。
「生きる目的を明確にして、
可能性を広げ、現実を変える」のか。
あなたの自由ですが。
思い込みに気づき、
それを手放すことで、
選択肢が無限になります。
繰り返しますが、
「選択肢=解決策」ですので。
当然、問題解決が
早くなり、現実への変化も
早く、大きくなります。
さらに。
「生きる目的」を明確にすることで、
「手段の目的化」から抜け出し、
堂々巡りからも抜け出せます。
どうですか?
そろそろ、本気で脳の使い方を
土台から変えませんか?
いつやるの?
今でしょ。
「生きる目的」に関しては冒頭の動画
ちなみに、先日、ある人から、
「坂庭さんて、○○なのに、××なんですね」
と言われました。
○○や××は、自由に何かに
置き換えてもらってOKです。
僕は、こう切り返しました。
「それって、ワニを水槽で飼おうと
しているようなもんでしょうね」と。
かく言う僕も、ほんの数年前までは
水槽で窮屈な思いをしているミドリガメ
でしたが。
今は。
「突き抜ける」というか、
「ぶち抜く」というか。
そういう生き方になりました。
脳の使い方を土台から変えると、
誰でも【規格外】になります。
固定観念
既成概念
という、「小さい器」
「狭い枠」を突き抜けて、
ぶち抜きます。
「常識」や「モラル」も、
所詮、個人の頭の中にしか
ありません。
自分を小さな枠に閉じ込めて
どうすんだ、って話。
では、最後にお聞きします。
あなたは、「死なないために
生きる生き方」と。
「規格外で突き抜けて、
ぶち抜く生き方」と。
どっちがいいですか?
もちろん、あなたの自由ですが。
もし、後者であれば、脳の使い方を
土台から変える以外にありません。
では。
坂庭